前回の記事を見ると、なんとひどい親なのかと思うかも知れない。
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過去を振り返り、私が思う事を端的に言うなら、いい時もあったのだが悪い時が酷すぎた、という事だ。
母は常に私に向かって怒っていた訳でも冷たかった訳でもない。
楽しかった事もあるし、母が優しくしてくれたという記憶も私にはあるのだ。
私にとってはある意味、その優しかった記憶があるが為に、子供時代を思い出す時、より苦しさを感じるのだと思っている。
もし私の育った家庭が “普通の家庭” であったなら、ここまで母の事を苦しく思い出す事はなかったのではないかと思う。
もしかしたら前回記事の階段から落ちた話も、後から笑い話にできる余裕があったのかも知れないとも思う(当時は相当なショックを受けたのだが)。
それ程までに幼少期の我が家に入り込んできた “事情” は、私に母への思い、そして小学生〜中学生時代の苦しさを強いた。
私が幼い日の事を思い返した時、そこには毎回母がいる。
これまで書いて来た話は今後私が書こうと思っている事のほんの一部なのだが、2歳程の小さな頃の記憶という物の中には、その頃の何気ない日常なんて物はほとんど含まれてはいない。
大抵の場合、母親を含みそして当時の自分にとっては衝撃があったもの、のみなのだ。
私がその後の子供時代を『階段から落ちたけれど母は助けてくれなかった。また時にはひどく叱られたけれど、その後普通の家庭で親から愛情を受け普通に育ちました』と言えるものであったなら、子供(私)は親が原因でここまで傷つき、病んでいく事もないのだ。
ほとんどの人(母親達)は私と同じ “事情“ を抱えてはいない。
もちろん探せばそんな人がいるのは分かっているのだが、その人数は割合でいうと圧倒的に少ない。
そんな中で言えば、私の母よりとても有利な立場だ(母は事情だけでなく元々の気質もあるのだろうが、事情が加わり私にとっては悪い方向に働いた)。
まだ子育てが続いているなら、まだ間に合う可能性は十分にあるのだ。
親だって感情がある人間だ。そして子供は親に完璧を求めてなどいない。
もしこれを読んで下さっている方で、私がかつて育児で感じたのと同じように葛藤や自己嫌悪を感じている方がいるのなら、こちらの記事を読んでいただければと思う。
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まだ間に合う可能性は十分にあると書いたが、今アラフォーになった私だってそうだ。
もう母は私を育て直す事はできないが、これだけいい年になり親になった今であっても、もし母が私に心からあの頃を悔いて謝罪してくれるのなら、私の心はだいぶ救われる部分があるはずだと思っている。
口にした事は取り消す事ができないし、された事も無かった事にはできない。
『まだ間に合うよ』と母に言いたいくらいだ。
過去は消えないのだけれど、私の母があの時の気持ちのままであるか、またそうでないかは、私にとって軽視できない部分だ。
この記事にあるように私の母は『ママだって完全な人間ではない!』と何度も言った。
私も何度も言うが、子供は母親に完璧を求めてなどいない。
我が家では『話が通じない』と子供達に言われる事がある私がこんな事を言ったと我が子が知ったら、『ママは何を開き直っているんだろうか』と呆れて開いた口が塞がらないかも知れない。
が、完全に子供目線で書いている為言わせていただきたい。
これだけは子供に対して言わないで欲しい言葉
私が子供に対して絶対に口にしてはいけないと思っている言葉は二つだ。
一つは命を否定する言葉
もう一つは産んだ事を後悔する言葉だ。
一度でもそれを言われた子供がその言葉にどれ程のショックを受けるか、そしてそれが以後の親子関係に影響を与えるかを知って欲しい。
言った側はその場の勢いで口にしてしまっても、言われた子供側は、大人になっても何年経っても覚えている事が多い。親に言われたその言葉は、親が想像する以上に子供にとっては悲しい出来事として残る。
どれだけ腹が立ってもイライラしても、その二つだけは堪えて欲しいと願う。
熱くなって一気に書いてしまいましたが、これは私が子供の立場から昔から願っていた事であって、私個人の考えです。私が書いた内容に賛否ある事も承知しています。こうあるべきだ、こうでなければいけないという記事ではありません。
一つは母に伝えたい気持ち、もう一つは私自身に言い聞かせる気持ち、最後に全ての子供が救われる事を願う私の気持ちからでたものです。また未だ事情について記事にできていない為、大変分かりにくい部分があり、申し訳ないと思っています。