子供の気持ちを忘れた大人達へ子供の気持を知る為の作業

2歳児は些細な事も褒められて当然だと思っている

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小さな子供がよく大人に言う『見て見て!』

大人にとっては耳にタコとも言える様なこの言葉。

こちらは忙しいのだが、子供にとってはそんな事お構いなしだ。

そして『見て見て!』には大抵の場合、褒められたい気持ちが含まれている。

手を止めて子供に注意を向けてあげなければ、ちゃんと話を聞いてあげなければ…分かっていても『ちょっと今忙しいから』と言ったり、『ふーん』とただ見るだけで終わってしまったり、私も経験がある事だ。

やがて『そんな事で何度も呼ばないでちょうだい!』となり、全て台無し…。

子供の時の記憶があると言っても、自分が慌ただしい育児の渦中にいると、つい当時の思いを忘れ(正確には忘れてはいないのだが、その場の自分を優先してしまう)子供に耳を傾けてあげれなかったことも何度もあった。

そんな時よく思い出す昔の出来事がある。なぜ大人は自分を褒めてくれないのだろう?と純粋に不思議でガッカリした出来事だ。

 

 

 

引っ越し作業に混ざり役に立ちたい!

 

3歳になる少し前、それまで住んでいたアパートから引っ越す時がきた。 

引っ越し当日、父の会社の人や母方の祖母も引っ越しの手伝いにきていたのだが、その中で唯一の子供である私の相手を誰もしてくれなかった。

いつもなら大人達が集まる中、みんなにチヤホヤされる場面なのだが、この日はチヤホヤされるどころか逆に邪魔にされているように私は感じていた。

今となれば、2歳の子供が引っ越しの最中その辺をウロチョロしていたら単に邪魔でしかないと分かるのだが、2歳児は少し傷付いていた。

そして大人達がバタバタと動き回る中、2歳児は何とか自分も役に立ちたい!邪魔扱いはされたくない!と思っていた。

そんな中、私はとてもいい事を思いついた。

せめて自分のオモチャを運ぼう!これはすごくほめられるはずだ!と疑いなく思っていた。

そしてこれまた大人達の無言の『ちょっと邪魔だよ』という雰囲気を感じながら、まだ部屋に残っていた自分のオモチャ、大きめのブロック入れにたどり着き、『これをトラックまで運んだらほめられるだろうなぁ』とワクワクした。

 

 

2歳の子供が大人達に期待した事

 

ブロックの箱を抱えた私は、アパートの鉄骨階段の一番上から下を見下ろしていた。

下を見ると、トラックの周りで大人達が忙しく作業をしている。その中におばあちゃんも母もいた。

ブロック入れを抱えた私は見晴らしの良い、そして下からも良く見えるその場所からしばらく動かずにいた。

 

大人にはこの時の2歳の心理が想像つくだろうか?

 

誰かが自分に気が付いて褒めてくれないかなぁという、打算的な気持ちなのだ(打算的という言葉はあまり良い意味ではないが、当時の気持ちを振り返っても、やはり褒められたいが為の計算高い行動だったと思う)。 

見て見て!私こんなに大きいのを運ぼうとしてるよ!エライでしょ?

自分はすごい事をしている。見たらみんなビックリするだろうな〜。と 本気で思っていたのだ。

 

子供と大人では“すごい事”の基準が違う

 

しばらくの間動かずにその場にいたのだが、いつまで経っても誰も私を褒めてはくれなかった。それどころか声もかけてくれなかった。

今思えば、単にブロック入れを抱えた子供が立っている。ただそれだけなのだから、大人達が何も思わなかったのも当然といえば当然だ。

 何ともめんどくさい子供の心理なのだが、大人にとってささいな事は2歳児にはとてもすごい事だったのだ。

それなのに誰からも何の反応ももらえなかった2歳の私は、とてもガッカリした。ちょっと誰かに『自分のオモチャを運んでいるの?エライね〜』『お、助かるな〜ありがとう』と言って欲しかっただけなのだ。

こうして書いてみると私がめんどくさい子供だっただけなのかも知れない。

でもあの時ガッカリした自分がいたのは確かで、それ程大人と子供の感覚は違うのだという事を後に知った。

褒められて嫌な気持ちのする子などいない。大人であっても褒められたら嬉しいものだ。

ただ大人と子供では、これをしたら褒められるかも知れない、これは褒められるだろうな、と思う事に大きな差があるというだけの事だ。

 

 

とても嫌だった母の褒め方

 

私の2歳の心理は大人にとってはあまりにも分かりにくく、あの状態で褒めてくれと言うのはちょっと難しいと今になれば分かる。また何でもかんでも子供を褒めればいいという訳ではない事も今は分かる。

だとしても母は滅多に私を褒める事はなかった。恐らく母が求めていた域にはあらゆる面で足りていなかったのだろう。

そんな母が時々大袈裟に私を褒める事があったのだが、そのほとんどは私にとってはとても嫌な褒められ方だった。

それは『すごい!みおちゃんは頼りになるな〜』『みおちゃんならやってくれると信じてた!』などだ。

例えば母の帰宅前に食器を洗っておいたとか、母に期待されていなかったお手伝いをした時に、嘘くさい程に褒めるのだ。

周りを見てきても、案外これは親が悪気なくやってしまう褒め方ではないかと感じる。

どうしてただ『ありがとう、助かったよ』と言ってくれないのか、と心がスッキリせずモヤモヤし、そして次回また同じ場面に遭遇した時に、“しなければいけない” というプレッシャーとなり、褒められているのにとても嫌な気持ちになった。

そして時には『みおちゃんはやってくれるよね〜?やってくれると思うな〜』『みおはこうするはずだよね〜』と直接のプレッシャーを与えてきて、私は選択肢を絶たれた。

子供の頃母に嫌われたくない、母の望むようにしなければと思っていた私は、自分が嫌な方向であっても、母に褒められたいからではなく、母の期待に沿わない事で怒られない為また機嫌を損ねない為に、“母の褒め方によって強いられた道”  を歩まされたと感じている。