読んで下さっている方の仮にひとりであっても、苦しみが軽くなることを願ってこの記事を書きました。
前記事①②から読んでいただいた方がより分かりやすい内容になっています
・忘れるという意味
・辛い体験を忘れようともがかない方がいいと思う理由
・辛い記憶の正体
・辛い体験を忘れることは
についてのわたしの考え方をまとめたものです
1 記憶から消えること
2 頻繁に思い出したり常に意識することがない、または新しいものによって意識しなくなること
なぜ人は辛かった出来事を何度も思い出すのか
繰り返し思い出すことでより強い記憶にしてしまったわたしのことを書きました。
別記事にも書いたことですが、わたしの場合はなぜ母はあんなことができたのか、どうしても理解できなかったのです。
そして母があんなことをした気持ちを知りたいと思っていました。
ですが何度も考えたのに、その理由をわたしは今も分からないないままです。
もうひとつの裏切られた経験も、「なぜ裏切られたのか、どうしてあんなことができたんだろう」と何度も考えました。
この時何度も考えたのは
なぜ自分は悲しいのか、という自分の気持ちではなく
なぜあんなことができたのか、どんな気持ちだったのか、という相手の気持ちと相手への怒りや悲しみの感情です。
相手の気持ちは、考えても考えても仮に答えがもらえたとしても、自分のことではないので、こちらが本当のところを知ることは一生ないのです。
過去をやり直したいと願っている
そこでわたしはなぜ終わった過去、どうやっても変えられない過去を何度も思い出すのか考えました。
長い時間をかけて行き着いたの答えがわたしは過去をやり直したいと願っているのではないか?というものです。
もちろんやり直せないことは分かっているのに、例えば
など、失われた子供時代を大人になっても諦め切れず、また過去をなかったことにしたいとか過去に戻れたら今度は裏切られる前に手を打つのに、とか、やり直すことはできないことを延々しつこく思い返していました。
相手を許していない、受け入れていない
なぜ何度も辛かった出来事を思い出すのかを考えた時わたしの体験両方に共通していることがあります。
相手を許していなかった
自分がされたことを受け入れることができていなかった
という点です。
これは自分の感情を分析して気づいたことです。
自分の体験を受け入れる、そして自分が苦しむ原因が誰かによるものの場合、相手を許すことができた時に、2(頻繁に思い出すことがない)の忘れるということに少し近づくのではないかと思っています。
正直わたしは許すというところには至っていないかもしれません。
人は間違ったことをするものです。
自分を傷つけた相手が許せないなら距離を取ったり会わないなどの自己防衛はできますが、それが家族や親となるととても難しいものとなります。
今のわたしの気持ちの中に、母に対しての憎しみは今はありません。
孫であるわたしの子供たちをとてもかわいがってくれるし、感謝もしています。
ただ、あの時の母の行為に対しては今も憎しみを持っているのだろうなと思っています。
また裏切られたことについてはその事実が信じられず、大きなショックを受けました。
信じられないというのはやはり受け入れられていないということです。
でも今はどちらも受け入れることができています。
何度も思い出してしまう辛い記憶の正体とは?
これに関して、わたしは子供時代体験した記憶の正体を自分で分かっています。
子供の時には分からなかったのですが、大人になって自分の子供を育てる上で認識した正体です。この事を子供時代の体験に絞って書いてみようと思います。
まずわたしは天国とか霊を信じているわけではないのですが、わたしが感じた正体はそのイメージにとても良く似ています。
子供時代の感情を大人の自分と共有していた
わたしが何度も子供時代の辛かったことを思い出していた時、その時の大人のわたしの気持ちは自分がその場にいるかのように子供の頃の自分を見ていました。
それこそ背後霊のように子供の自分に張り付き、辛い思いとその体験を共有し抱えていました。
それはまるで子供の頃の辛かった気持ちが成仏できずにいるように、何度も幼少期〜中学校時代の自分の元に行き、その辺をフラフラ彷徨いました。
小学校へ行き先生達にされた差別を思い出して苦しくなり、当時の自宅に行ってはその孤独を見て胸が張り裂けるような思いをしました。
子供時代の自分を慰め続け私は主役の座を降りた
わたしは自分が子供を産んでからは、より頻繁に過去の自分に会いに行きました。
自分の子供に比べて、過去の自分がとてもかわいそうに思えたのです。
我が子は叩かれて育ってはいないし、ひどい暴言を浴びせられることもありません。親に怯えることもなく、のびのび育っていました。
過去を想うわたしに変化が出たのは、今から10年程前のことでした。
普通の家庭で育っていたら得られたであろう幸せ、経験できたであろうことのほとんどをわたしは得られずに過ごしたことに改めて気づき、自分を哀れに思いました。
そして子供時代の自分の辛さを客観的に見るようになり、子供の自分を何度もなぐさめました。
心の中で涙を流し、辛かったね痛かったよねと、子供時代の自分に寄り添いました。
それまでは子供時代の辛い物語の主役は大人になってもなお自分だったのが、その時を機に主役を降り、傍目から子供時代の自分を見るようになりました。
過去の自分と共有していた思いを手放した
その後わたしは共有していた子供時代の辛い体験と記憶を、それはもう今の自分のものではないのだと、手放しました。
そしてこの一連の思いを表すとすれば、時間はかかりましたが、癒されることなく彷徨い続けた亡霊(当時を思い出して辛かったと思う今の自分の気持ち)がやっと成仏できて天国に行けたという気持ちなのです。
背後霊のように張り付いて見ていた光景を、今は離れた場所から見守るような気持ちになりました。
忘れずに苦しみから解放されることはあるのか?
辛い気持ちは今もあります。
上の絵の今の気持ちにも、小さく悲しい顔は残っています。
子供時代に行き、当時の自分に会いに行くことは、今も稀にあります。
その時は以前のようにそのあたりをウロウロしたり背後霊のような真似はせず、早々切り上げて戻ってくるので、気持ちが揺れることはありません。
でももしその滞在時間が長くなって、必要以上に子供の自分に再び感情移入し、悲しかった辛かったという思いを共有するようになれば、せっかく成仏した気持ちがまたフラフラ戻ってきてしまうかもしれないと思ってもいます。
ただ今回この記事を書く上で、かなり深いところまで過去の自分に会いに行ったという自覚があり、子供の頃から精神的にストレスがかかると喉を小さくコポコポ鳴らすチックがあるのですが、それが出てしまいました。
平気だと思っていてもこうして掘り下げて考えることは自分にとってストレスなのかと知り、まだ傷つくのね?と自分を人間くさいな…とひとりでちょっと笑えたことでもありました。
これまでわたしは子供時代の辛い体験をちゃんと誰かに話したことはなく、聞いてほしいと思うこともありませんでした。
ただこのブログを始める時、子供時代のことを書こうと思っていたので、誰にも話さずにいたことをこうして文章にできるというのは、今は過去を受け入れられているし、自分にとってだいぶ気持ちが変わったんだろうなということはわかります。
もう今は完全に解放されることを望んではいません。
過去の自分の辛かった体験は、なかったことにできるものではなく、当時があった結果今の自分があるというのは確かなことだからです。
辛い記憶があるのは悪いことのみではないよという記事も書きたかったのですが、この3つの記事で手いっぱいでした。
自分の中で考えていることを文字にして相手に伝えることの難しさをより強く感じ、文章を書かなければ知らなかったことを経験にもなりました。
それぞれの記事のまとめを作る余裕もなく、読みにくく感じさせてしまったら申し訳ありません。
しばらく経ったらリライトして作成しようと思っています。
ここまで読んでくださった方がいましたら、本当にありがとうございます。
少しでも辛い気持ちをする人、子供が減るよう願っています。
烏星 未烏